カテゴリー別アーカイブ: 産業遺産

鉱山シンポジウム

佐田岬半島は、中央構造線に位置し 銅がよくとれました その銅山跡地が多数あるのですが その中でも、保内にある「大峰銅山」のふさがれた入口が開き 保内の皆様を中心に 広く一般に知っていただくようなことができないか活動されていらっしゃいます そんな中、全国鉱山シンポジウムが開かれ 今回の講師をつとめてくださいました 岡崎直司 氏 (ヘリティジマネージャー、八幡濱みてみん會顧問) が実際にシンポジウムに参加され、 そのときの様子や内容を教えて下さいました   参加者の方々のご意見は三者三様でしたが 率直なご意見も飛び出し 今後の展開に向けての第一歩となったのではないでしょうか   今から、銅山跡地の中に入れるのがとても楽しみです 何でも、坑道の壁は「鍰レンガ」でできているとか

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女子精錬所

佐田岬半島には、銅の精錬所跡が3箇所あります ・ 佐島(八幡浜市) ・ 女子岬(伊方町) ・ 井野浦(伊方町) の3箇所です そのうち、佐島は2回ほど訪ねたことがあったのですが、 今回初めて、女子岬の精錬所跡を訪ねました この産業遺産は、車から、山道を840m歩いたところに現れるのですが、 山道に入るところに看板があり、   「女子精錬所跡 所在地 伊方町九町 女子岬 所有者 伊方町 明治の中期より大正初期にかけて、岬半島の鉱業開発が盛んに勧められ、 銅鋼精錬所は町見村女子岬、三崎村童子ヶ鼻、八幡浜佐島の三箇所にあり、 付近の銅鉱を集めて精錬していた。 明治31年、町見女子岬に作られた精錬所は、最初はのがまや吹子式の幼稚な施設であったが、 日露戦争当時、新式の施設にされ、約10年間順調に操業された。 しかし、その後、銅相場の暴落や煙害による付近住民の反対もあり、 明治41年頃から操業困難となった。 煙害については、愛媛新報に次のような記録がある。 明治41年1月14日付・・・煙害賠償金を区長により、 土地所有者の広狭に応じ相当に分配した。 明治41年7月4日付・・・拡張し機械も完全に整備された。 明治41年8月17日付・・・損害賠償と東南風時の操業中止の要求。 精錬所これを拒否する。 大騒ぎとならないよう、毎年11月8日を吹子祭りとし部落代表者を招待、 往復特船の便をしたてるなど優遇・緩和をはかった。 精錬所はたびたび賠償金の支払いをしたり、吹子祭りを催し、住民の懐柔をはかったりしたが、 明治44年、明治精錬会社に売り渡され、大正初期に廃止された。 現在は、その頃の施設の一部である「のがま」が数多く残り、からみ、船着き場等も残っている。 伊方町教育委員会」

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精錬所跡

佐田岬半島は、かつて銅の密集地帯でした 別子銅山と同じ鉱床です そして、銅の精錬所も3箇所あったそうです 現在稼動しているものはありませんが、その精錬所跡は部分的に残っています ・佐島(八幡浜市) ・女子岬(伊方町) ・旧三崎町井野浦(伊方町) どちらも、精錬の過程で出てくる亜硫酸ガスという公害発生により使われなくなってしまった産業遺産です 瀬戸内海の犬島が同じく銅の精錬所跡が建築&アートの力で蘇ったように 産業遺産は、今後、活用次第で活きてくる地域の財産になりうると思います 先日岡崎直司さんに見せていただきました井野浦の精錬所跡地・・・予想以上に残っており 同じ市外局番であることや地層・文化の繋がりのなかで 八幡浜と伊方町全体を見渡した調査・研究・活用等の重要性を再認識致しました

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